−暗いけど、どうなんだろう?−
2004年10月24日ちょっと暗いことを書きますので。 見たくない人は見ないように。
「精神的に向上心のないやつは馬鹿だ。」
夏目漱石の「こころ」で、“K”が自らを問うために言い、
“私”に言い返されたことで、“K”は…。
ちなみに、久しぶりに読み返して、
「精神的に向上心のないやつ」ってこの小説の中ではどうも愛とか、恋とか、
そういうのに溺れているやつ、って気がするんですが、どうでしょう?
愛とか、恋とか、私はそういうのもとっても重要って思うんですが、
まぁ、この小説が書かれた時代が時代ですから。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
これから書くことは、私の、私の脳が描く、私的な思考です。
私が“今”思う『死』というものについて
私にとって死というものは『恐怖』そのもでしかない。
死ぬのは恐い。 なぜか? それは生きたいからだ。
「あなたにはそれほどまでにして生きたい理由があるのですね?」
はっきり言ってありません。 そうですね、矛盾してます。
裏日記(もう消えたけど。)に書いたことがあったかもしれないが、
私にも本当に死のうと思ったことがある。
駅の快速急行が停車しない、人の少ない駅を選んでホームに座り、
何時間も過ぎ行く電車を眺めつづけたこともある。
過ぎ行く電車の窓から零れる灯りが、走馬灯のように見えて、
駅のベンチで泣いていたこともある。
この時は、なぜか電車に飛びこむのが一番いい死に方(確実な死に方)
だと思い込んでいた。
後日、完全自殺マニュアル本を読んで、
多額の賠償金が降りかかることを知って驚愕したが。
そのときの私にとって『死』というのは、たぶんとても身近なものだったと思う。
しかし、今は、そのときの気持ちを忘れているのか、
それともそんな頃があったからか、死というものが恐くて仕方がない。
「たぶん、死ぬのが恐いから生きているのです。」
なぜ、死ぬのが恐いのだろうか。
さっきは生きたいからと書いたが、本当にそれだけなのだろうか。
「死んだら人はどうなるのでしょう?」
解かりません。 今ある現実より、良くなるのか悪くなるのか。
死んだ後のことは解からないので、答えようがない。
良くなる確実性はない。 だが、悪くなる確実性もない。
しかし、だからこそ、もし今より悪くなるとしたら?
そう考えると、それほど怖いものはないかもしれない。
教育テレビだったか、過去の映像で
三島由起夫氏が現代の死について語っているの見たが、
「今の死というものには大義がない。」
大義名分がない。 死ぬ理由がない。人は生きる理由を見つけられなくなって、
それはつまり、何のために死ぬのか。
例えば、英雄となって死ぬのなら、戦争というの名のもとに死ぬのなら、
もっと身近に言うと、車に轢かれそうになった人を助けるために死ぬのなら、
そこに大義はあるかもしれない。
でも、そんな大義名分を求めている人はきっと死なない。
なぜなら、例え目の前にそれに近い場面があったとしても、
もっといい死に方を探そうとするからだ。
人間は欲望の塊、その時も欲望は渦を巻く。それがすべてでもないが。
では、大義のない死はどうなのだろう。
このことについて、三島由起夫氏は何も語らなかったが、
「「武士道というは死ぬことと見つけたり」と書いた
『葉隠』の作者は、長生きして、畳の上で死んだという。
私も死というものを語りながら、この作者と同じように
畳の上で死んでいくのでしょう。」
そう語っていたが、三島由起夫氏は45歳の時に自殺している。
結局、本当に死を選ぶ場合、大義などどうでもいいのかもしれない。
私が駅のホームで何時間も待っていたように。
だが、今の私にはちゃんと死というものと向き合っていないせいか、
まるで異世界のことのように感じてしまう私は何だろう。
「そう考えるのが普通じゃないですか?」
それを普通というのなら、現代の常識は間違ってやしないか?と、
逆に問いかけたくなる。 違うだろうか?
しかし、ただ、“今”死というものはと聞かれたら、
「死…それは恐怖です。」
そう答えるしかないだろう。 臆病者だからか。 そんな簡単なことではない。
…やはり話しが右往左往してしまった。
ちなみに言っておきますが、私は三島由起夫氏の崇拝者とかではありません。
純粋に文学として、小説は読みますがね。
「精神的に向上心のないやつは馬鹿だ。」
夏目漱石の「こころ」で、“K”が自らを問うために言い、
“私”に言い返されたことで、“K”は…。
ちなみに、久しぶりに読み返して、
「精神的に向上心のないやつ」ってこの小説の中ではどうも愛とか、恋とか、
そういうのに溺れているやつ、って気がするんですが、どうでしょう?
愛とか、恋とか、私はそういうのもとっても重要って思うんですが、
まぁ、この小説が書かれた時代が時代ですから。
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これから書くことは、私の、私の脳が描く、私的な思考です。
私が“今”思う『死』というものについて
私にとって死というものは『恐怖』そのもでしかない。
死ぬのは恐い。 なぜか? それは生きたいからだ。
「あなたにはそれほどまでにして生きたい理由があるのですね?」
はっきり言ってありません。 そうですね、矛盾してます。
裏日記(もう消えたけど。)に書いたことがあったかもしれないが、
私にも本当に死のうと思ったことがある。
駅の快速急行が停車しない、人の少ない駅を選んでホームに座り、
何時間も過ぎ行く電車を眺めつづけたこともある。
過ぎ行く電車の窓から零れる灯りが、走馬灯のように見えて、
駅のベンチで泣いていたこともある。
この時は、なぜか電車に飛びこむのが一番いい死に方(確実な死に方)
だと思い込んでいた。
後日、完全自殺マニュアル本を読んで、
多額の賠償金が降りかかることを知って驚愕したが。
そのときの私にとって『死』というのは、たぶんとても身近なものだったと思う。
しかし、今は、そのときの気持ちを忘れているのか、
それともそんな頃があったからか、死というものが恐くて仕方がない。
「たぶん、死ぬのが恐いから生きているのです。」
なぜ、死ぬのが恐いのだろうか。
さっきは生きたいからと書いたが、本当にそれだけなのだろうか。
「死んだら人はどうなるのでしょう?」
解かりません。 今ある現実より、良くなるのか悪くなるのか。
死んだ後のことは解からないので、答えようがない。
良くなる確実性はない。 だが、悪くなる確実性もない。
しかし、だからこそ、もし今より悪くなるとしたら?
そう考えると、それほど怖いものはないかもしれない。
教育テレビだったか、過去の映像で
三島由起夫氏が現代の死について語っているの見たが、
「今の死というものには大義がない。」
大義名分がない。 死ぬ理由がない。人は生きる理由を見つけられなくなって、
それはつまり、何のために死ぬのか。
例えば、英雄となって死ぬのなら、戦争というの名のもとに死ぬのなら、
もっと身近に言うと、車に轢かれそうになった人を助けるために死ぬのなら、
そこに大義はあるかもしれない。
でも、そんな大義名分を求めている人はきっと死なない。
なぜなら、例え目の前にそれに近い場面があったとしても、
もっといい死に方を探そうとするからだ。
人間は欲望の塊、その時も欲望は渦を巻く。それがすべてでもないが。
では、大義のない死はどうなのだろう。
このことについて、三島由起夫氏は何も語らなかったが、
「「武士道というは死ぬことと見つけたり」と書いた
『葉隠』の作者は、長生きして、畳の上で死んだという。
私も死というものを語りながら、この作者と同じように
畳の上で死んでいくのでしょう。」
そう語っていたが、三島由起夫氏は45歳の時に自殺している。
結局、本当に死を選ぶ場合、大義などどうでもいいのかもしれない。
私が駅のホームで何時間も待っていたように。
だが、今の私にはちゃんと死というものと向き合っていないせいか、
まるで異世界のことのように感じてしまう私は何だろう。
「そう考えるのが普通じゃないですか?」
それを普通というのなら、現代の常識は間違ってやしないか?と、
逆に問いかけたくなる。 違うだろうか?
しかし、ただ、“今”死というものはと聞かれたら、
「死…それは恐怖です。」
そう答えるしかないだろう。 臆病者だからか。 そんな簡単なことではない。
…やはり話しが右往左往してしまった。
ちなみに言っておきますが、私は三島由起夫氏の崇拝者とかではありません。
純粋に文学として、小説は読みますがね。
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