“復活 ver.2” 〜Revival and the future〜
2005年10月31日私は思う。
紛れもなく、これは私こと享世が借りたブログ。
だから、私が何を書こうが私の勝手。
それを読んで誰かが何をどんなことを思おうが、それは私の想定外。
ネットという全世界共通の公共電波に公開しているからって、
誰もが見て、そこに書かれている言葉に一々反応して
難癖つけられても私の知ったことじゃない。
確かに非人道的なことを書き並べて、それを肯定し、
それを他者にも促すようなことを書いているならば。そこは改めよう。
しかし、そうでないならば、私の自由。
このプログは私が私の言葉を書くためのプログ。
誰のためでもない。私のためだ。そう思う。
不躾な言葉だが、「イヤなら見るな。」
当たり前だろう。その言葉のままの意味だ。
なぜなら、ネット世界で生きるということは、言葉を綴るということだ。
言葉を綴る限りそれは公開する、そうでなければ意味がない。
言葉を紡いでもそれを公開しなければ、それは現実世界で、
例えそこにいても警察に失踪届けが出されるようなものだ。
生きているのか死んでいるのか、
本人以外、誰にもわからないのだから。
もし今の自分が嫌で、自分を消したいと思うならばそれもいいだろう。
この世界の利点は新たに名を変え、生きなおすことが出来る点だ。
現実世界ではそうもいかない、ここは出来ないことができる世界。
そして、現実世界でとても大切なものを簡単に捨てられる世界。
今だから言えるが、私も一瞬捨てそうになった。
そのことに気付いている人はどれくらいいるだろうか?
例えば、誰かがあなたに問いかけた言葉があっても、
その言葉に対してあなたが言葉を“公開”しなければ
それは“無視”したことになる。
ただ、問いかけられた言葉があまりにも難解で答えられない
ということもあるので、一概にそうだ!と言い切るつもりはない。
ただ私がいいたいのは、
その気になれば、この世界では簡単に“人を裏切れる”ということ。
つまり、捨てられるということ。
ただ、この世界の是非を問うつもりはない。
一長一短があるのは何にでも当たり前で、
それが正しいとか間違っているかは自分で決めればいい。
今やどこのどんな世界も有り余る情報を個人で捨拾選択する時代。
誰かに惑わされる必要はない。
と、私はココを少し離れていてそう思った。
↓続く…。
紛れもなく、これは私こと享世が借りたブログ。
だから、私が何を書こうが私の勝手。
それを読んで誰かが何をどんなことを思おうが、それは私の想定外。
ネットという全世界共通の公共電波に公開しているからって、
誰もが見て、そこに書かれている言葉に一々反応して
難癖つけられても私の知ったことじゃない。
確かに非人道的なことを書き並べて、それを肯定し、
それを他者にも促すようなことを書いているならば。そこは改めよう。
しかし、そうでないならば、私の自由。
このプログは私が私の言葉を書くためのプログ。
誰のためでもない。私のためだ。そう思う。
不躾な言葉だが、「イヤなら見るな。」
当たり前だろう。その言葉のままの意味だ。
なぜなら、ネット世界で生きるということは、言葉を綴るということだ。
言葉を綴る限りそれは公開する、そうでなければ意味がない。
言葉を紡いでもそれを公開しなければ、それは現実世界で、
例えそこにいても警察に失踪届けが出されるようなものだ。
生きているのか死んでいるのか、
本人以外、誰にもわからないのだから。
もし今の自分が嫌で、自分を消したいと思うならばそれもいいだろう。
この世界の利点は新たに名を変え、生きなおすことが出来る点だ。
現実世界ではそうもいかない、ここは出来ないことができる世界。
そして、現実世界でとても大切なものを簡単に捨てられる世界。
今だから言えるが、私も一瞬捨てそうになった。
そのことに気付いている人はどれくらいいるだろうか?
例えば、誰かがあなたに問いかけた言葉があっても、
その言葉に対してあなたが言葉を“公開”しなければ
それは“無視”したことになる。
ただ、問いかけられた言葉があまりにも難解で答えられない
ということもあるので、一概にそうだ!と言い切るつもりはない。
ただ私がいいたいのは、
その気になれば、この世界では簡単に“人を裏切れる”ということ。
つまり、捨てられるということ。
ただ、この世界の是非を問うつもりはない。
一長一短があるのは何にでも当たり前で、
それが正しいとか間違っているかは自分で決めればいい。
今やどこのどんな世界も有り余る情報を個人で捨拾選択する時代。
誰かに惑わされる必要はない。
と、私はココを少し離れていてそう思った。
↓続く…。
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